中川部屋
元幕内・春日富士の20代春日山が平成9年に安治川部屋(現伊勢ヶ濱部屋)から独立して再興した春日山部屋を前身とする。
20代は平成24年、新たに選任された理事職に専念するため16代雷を襲名すると、春日山の名跡は追手風部屋の元幕内濵錦に譲って部屋付きとなり、21代春日山(濵錦)が新たな師匠の座に就いた。
しかし、この継承時には年寄名跡証書の譲渡がなされていなかった。そのため、同年中に雷が不正経理疑惑等の責任を問われ、理事職だけでなく相撲協会をも退くに至ると、両者の争いは表面化。
法廷闘争に及んだ具体的な経過は記さないが、ともあれ21代はその後も年寄名跡証書を譲り受けることが出来ず(+弟子の指導に関する責任追及を受け)、遂に28年10月、協会から不適格との理由で師匠辞任を勧告される。最終的に21代がこれを受諾したことで、23名の所属力士と春日山を含む年寄・裏方などは追手風部屋預かりの身となったのである(その後、協会の処分を不服とする力士10数名が引退し、21代春日山も翌年1月に退職)。

旧春日山勢は、追手風部屋所属ながら暫定的に20代春日山(春日富士)の所有する施設を利用し、追手風部屋付きで20代とは同期同学年にあたる15代中川(元幕内・旭里)が師匠代行として指導にあたっていたところ、29年1月に中川の独立が認められ、中川部屋としての再始動が決定。同年6月には新部屋への移転も済ませ、泥沼の騒動に振り回され続けた力士たちは、ようやく安心して稽古ができる環境を得ることができた。
31年初場所では高校相撲経験者の木山が入門。独立から3年目で初の新弟子を迎え入れると、春場所前には現役の中学横綱吉井も入門を表明するなど新興部屋としての気勢が上がりつつあり、今後のスカウティングにも俄然注目が集まりそうだ。

なお、当代中川は現役時大島部屋の所属。平成10年の引退後も当初は大島部屋付きの14代熊ヶ谷として活動していたが、16年に追手風(大翔山)が所有する中川株を借り受けたことから追手風部屋へ移籍。28年12月には追手風部屋付きの年寄として伊勢ヶ濱一門から時津風一門へ移ったため、独立後の中川部屋も時津風一門所属の部屋となっている。



主な注目力士
旭蒼天(H5 モンゴル 189 116)
当初弟子入りした高望山の高島部屋はデビュー前に閉鎖。受け入れ先の春日山部屋で初土俵(23年9月)を踏んで以降も、20代春日山→21代春日山→一時預かり先の追手風部屋→現在の中川部屋と、めまぐるしく所属や師匠が入れ替わってきた。
四股名も高望山の(もしくは「高」島部屋の)「高」を貰い受けた高春日に始まり、後援者の苗字から取った種子島、当代中川の現役名(旭里)に由来する旭蒼天と節目ごと原型を留めないレベルで変わり続いている。
唯一あまり変わらないのが110キロ台の痩身というのは皮肉な話だが、まっすぐ突き刺さって両前廻しを探りながら真っ向出ていく取り口にとっては笑えない問題。もう少し体力がついてきさえすれば、早く立つことに拘りすぎている感の濃い立ち合いにも余裕が生まれるのだろうが…
本来中堅どころの年齢も、古参揃い&春日山部屋閉鎖時の大量引退を経た部屋においては有数の若手。そんな立場が2人の新弟子加入によって「変わる」ことをプラスに出来るかどうか。


義春日(H6 神奈川 176 125)
25年初場所で初土俵を踏んだ24歳、春日山部屋時代は濱春日を名乗っていた。
向の岡工相撲部同級生には友風(尾車)、日体大を経て4年後に入門したかつての級友があっという間に自身の番付を抜き去っていった悔しさを晴らすべく、まずは新幕下を目指す。
左前廻しを浅く引いて食いつくか、突き起こして出ていくかを相手によって使い分けるタイプだが、基本的には前者で、二歩目の足を素早く運べれば自分のペースに持ち込める。反面、幕下級の当たりには弾き飛ばされるケースも見られ、膝が悪い分、後ろに下がると踏ん張りきれないようだ。