もしかすると、4回目の更新が遅れ気味になるかもしれないので、ここで3.5回目として短めのクッションを。
これまで何度も書いてきた「相撲勘」という曖昧な用語について、少しばかり噛み砕いた解説を入れてみようかなと思います。
※あくまでおまけの回ゆえ、堅苦しく感じてしまわぬよう、今回は「ですます調」で書きます。
前回も記した通り、豪栄道の得意とする流れとして、両廻し(出来れば右四つ)を深く引いて大きな相手の下に入り、合わせ技のようにして左右へ振りながら相手の腰を落ち着けずにペースを握っていくという形があります。
ただ、これも闇雲に振っていては呼び込んで相手に付け入られる原因となるわけで、一応のコツとして、左上手からの捻りを利かせながら右下手で振る場合は、相手が逆足-上手を引いている側の足が前にある状態-のとき、右下手からの捻りを利かせながら左上手で振る場合は、相手が順足-下手を引いている側の足が前にある状態-のときにうまく体を開きながら繰り出すと付け入られにくいとされています。
とはいえ、こういうのはあくまで展開が止まっているときに関して有意義な訓えであり、往年の大鵬のように大柄な人が左四つでどしっと腰を据え、相手の体勢を落ち着いて見られる状態で放つのならばともかく、豪栄道は多くの場合で相手よりも体格で劣り、それゆえ常に動き続ける中で相手の腰を落ち着けさせないために出していくわけですから、一々動きを止め、相手の足がどういう構えになっているのかということを考えながら取っているのでは、相手に先手の攻めを許し、こうなってしまうといかに小力があるとはいえ、体力面の不利を覆すのは簡単ではなくなってしまいます。
それを免れるためには、頭で考えるより先に相手の出方を体で読み取り、瞬時に反応していくセンスが必要になってくる。これこそが「相撲勘」というものの正体であり、豪栄道という人が他の力士と比べ、大きく秀でている特長というわけです。
たとえば秋場所初日、直近5回の対戦で1勝4敗(1勝は立合いの変化)と大の苦手にしている栃ノ心戦で、右四つ十分の上手を許しながら、豪栄道が左右から二、三度振るようにして体を回せば、栃ノ心は自分から積極的に攻める機会を一度も見出だせぬまま、あっけなく土俵を割ってしまった(詳細は今後、秋場所全15番分析の記事にて記載します)。傍目には、何故栃ノ心ほどの実力者があれほど簡単に振り回されてしまうのか不思議に思えるのですが、細かくそれぞれの場面を見ていけば、やはり豪栄道の動きは上記したような「コツ」に倣い、的確に動いて栃ノ心を翻弄しています(最後、栃ノ心が順足になったところで大きめに振って白房側に寄り立てたところがもっとも分かりやすいかもしれません)。
右手首骨折により殆どぶっつけで挑んだ初場所、眼窩内骨折の影響で調整不足を強いられた名古屋の対戦において、同じ右四つから何もできず、逆に簡単に胸を合わされたり、引っ張り回されて抵抗のすべなく持って行かれたりで完敗していたのと比べれば豪栄道側の反応の鋭さが一目瞭然。
この時点で、少なくとも「今回は十分に稽古ができている」ということを見抜くべきであったのに、後付けでしか判断できずにいるあたりは筆者の至らなさでありつつ、多くの評論家も同様に見逃していた「機微」であったのかなと思います。
こうした「勘の良さ」というものは、勿論生来持ちあわせたセンスの良し悪しも関係しますが、大前提はやはり日々の稽古によって蓄え、築き、育てるものであり、どれだけセンスが良かろうと十分な稽古量が担保されない状態が慢性的に続くようでは、本場所の土俵で十分な成果を発揮することは難しい。
ここまで来れば、もう相撲の世界に限った話ではなくなってきますよね。
…という感じで少しでも「相撲勘」という抽象的な表現の理解を助ける一助になったならば光栄に存じます。おまけの更新、これにて打ち止め。
これまで何度も書いてきた「相撲勘」という曖昧な用語について、少しばかり噛み砕いた解説を入れてみようかなと思います。
※あくまでおまけの回ゆえ、堅苦しく感じてしまわぬよう、今回は「ですます調」で書きます。
前回も記した通り、豪栄道の得意とする流れとして、両廻し(出来れば右四つ)を深く引いて大きな相手の下に入り、合わせ技のようにして左右へ振りながら相手の腰を落ち着けずにペースを握っていくという形があります。
ただ、これも闇雲に振っていては呼び込んで相手に付け入られる原因となるわけで、一応のコツとして、左上手からの捻りを利かせながら右下手で振る場合は、相手が逆足-上手を引いている側の足が前にある状態-のとき、右下手からの捻りを利かせながら左上手で振る場合は、相手が順足-下手を引いている側の足が前にある状態-のときにうまく体を開きながら繰り出すと付け入られにくいとされています。
とはいえ、こういうのはあくまで展開が止まっているときに関して有意義な訓えであり、往年の大鵬のように大柄な人が左四つでどしっと腰を据え、相手の体勢を落ち着いて見られる状態で放つのならばともかく、豪栄道は多くの場合で相手よりも体格で劣り、それゆえ常に動き続ける中で相手の腰を落ち着けさせないために出していくわけですから、一々動きを止め、相手の足がどういう構えになっているのかということを考えながら取っているのでは、相手に先手の攻めを許し、こうなってしまうといかに小力があるとはいえ、体力面の不利を覆すのは簡単ではなくなってしまいます。
それを免れるためには、頭で考えるより先に相手の出方を体で読み取り、瞬時に反応していくセンスが必要になってくる。これこそが「相撲勘」というものの正体であり、豪栄道という人が他の力士と比べ、大きく秀でている特長というわけです。
たとえば秋場所初日、直近5回の対戦で1勝4敗(1勝は立合いの変化)と大の苦手にしている栃ノ心戦で、右四つ十分の上手を許しながら、豪栄道が左右から二、三度振るようにして体を回せば、栃ノ心は自分から積極的に攻める機会を一度も見出だせぬまま、あっけなく土俵を割ってしまった(詳細は今後、秋場所全15番分析の記事にて記載します)。傍目には、何故栃ノ心ほどの実力者があれほど簡単に振り回されてしまうのか不思議に思えるのですが、細かくそれぞれの場面を見ていけば、やはり豪栄道の動きは上記したような「コツ」に倣い、的確に動いて栃ノ心を翻弄しています(最後、栃ノ心が順足になったところで大きめに振って白房側に寄り立てたところがもっとも分かりやすいかもしれません)。
右手首骨折により殆どぶっつけで挑んだ初場所、眼窩内骨折の影響で調整不足を強いられた名古屋の対戦において、同じ右四つから何もできず、逆に簡単に胸を合わされたり、引っ張り回されて抵抗のすべなく持って行かれたりで完敗していたのと比べれば豪栄道側の反応の鋭さが一目瞭然。
この時点で、少なくとも「今回は十分に稽古ができている」ということを見抜くべきであったのに、後付けでしか判断できずにいるあたりは筆者の至らなさでありつつ、多くの評論家も同様に見逃していた「機微」であったのかなと思います。
こうした「勘の良さ」というものは、勿論生来持ちあわせたセンスの良し悪しも関係しますが、大前提はやはり日々の稽古によって蓄え、築き、育てるものであり、どれだけセンスが良かろうと十分な稽古量が担保されない状態が慢性的に続くようでは、本場所の土俵で十分な成果を発揮することは難しい。
ここまで来れば、もう相撲の世界に限った話ではなくなってきますよね。
…という感じで少しでも「相撲勘」という抽象的な表現の理解を助ける一助になったならば光栄に存じます。おまけの更新、これにて打ち止め。