土俵一路

本場所中の更新に加え、場所と場所の間は花形力士の取り口分析、幕下以下有望力士の特集などを書いています。 「本場所中も本場所後も楽しめる」をコンセプトとして、マイペースかつストイックに我が道を往き続けます。                他サイト等への転載はご遠慮下さい。

Category:力士別分析 は行 > 白鵬(引退)

前回の記事

実は「五輪書」の中に、前回提示した疑問ー白鵬は立ち合いの際に相手のどの部分を見ているのかーへの手がかりをよりダイレクトに得られる部分がある。
「観の目・見の目」の基本を押さえたところで、今回はより核心に近いところへと迫っていこう。


五輪書・風の巻 
一 他流に目付と云事
目付といひて、其流により、敵の太刀に目を付るもあり。亦は手に目を付る流もあり。或は顔に目を付、或は足などに目を付るもあり。其ごとく、とりわけて目をつけむとしては、まぎるゝ心ありて、兵法のやまひといふ物になるなり 。
其子細は、鞠をける人は、まりによく目を付ねども、ひんすりをけ、おいまりをしながしてもけまわりてもける事、物になるゝとゆふ所あれば、慥に目に見るに及ばず。又はうかなどするものゝわざにも、其道になれては、戸びらを鼻にたて、刀をいく腰もたまなどにする事、是皆慥に目付とはなけれども、不㆑断手にふれぬれば、おのづから見ゆる所也 。
兵法の道におゐても、其敵/\としなれ、人の心の軽重を覚へ、道をおこなひ得ては、太刀の遠近遅速迄もみな見ゆる儀也。兵法の目付は、大形其人の心に付たる眼也 。
大分の兵法に至ても、其敵の人数の位に付たる眼也 。観見二ツの見やう、観の目つよくして敵の心を見、其場の位を見、大きに目を付て、其戦のけいきを見、其おりふしの強弱を見て、まさしく勝事を得る事専也。
大小兵法において、ちいさく目を付る事なし。前にもしるすごとく、濃にちいさく目を付るによつて、大きなる事をとりわすれ、まよふ心出きて、慥なる勝をぬがすもの也。此利能々吟味して鍛錬有べき也。
【訳】
他流では、目付と称して、流儀々々により或いは敵の太刀に目をつけるもの、手に目をつけるもの、または顔、足などに目をつけるものがある。このように、とり立ててどこかに目をつけようとすれば、それに迷わされて、兵法のさまたげとなるものである。
その理由をのべよう。たとえば、蹴鞠をする人は、鞠に目をつけているわけではないのに、さまざまな蹴鞠の技法において、たくみに蹴ることができる。ものに習熟するということによって、目で一々見ている必要がなくなるのである。また曲芸などをする者も、その道に熟達すれば、扉を鼻の上にたてたり、刀を幾腰も手玉にとったりする場合、これも亦、いちいち目をつけているわけではないが、平常から扱いなれていることによって、自然とよく見えるようになるのである。

兵法の道においても、その時々の敵とのたたかいになれ、人の心の軽重をさとり、武芸の道を会得するようになれば、太刀の遠近、遅速まで、すべて見とおせるものである。兵法の目のつけどころといえば、それは相手の心に目をつけるのだといえよう。
大勢の合戦にあっても、その敵の部隊の真の力(エネルギー)にこそ目をつけるのである。観と見の二つの見方のうち、観すなわち事物の本質を見きわめることに中心をおいて、敵の心中を見ぬき、その場所の状況を判断し、その合戦がどちらに分があるか、その時々の敵味方の強弱までを把握することによって、確実に勝を得ることができるのである。
大勢の合戦でも、一対一の勝負でも、細かい部分に目をとらわれてはならない。前にものべたように、細かな部分々々に目をつけることによって、大局を見おとし、心に迷いを生じて確実な勝利をとり逃がしてしまうものである。この道理をよくよく研究し、鍛錬するように。
(宮本武蔵「五輪書」 神子侃訳 徳間書店 203-205頁)



囚われる心
武蔵は、勝負に際して特定の場所に目をつけるべしという他流の指導を否定する。「どの場所に目をつけるべきか」と考えること自体が生兵法の類であり、「兵法の病」に囚われている状態なのだろう。
多くの力士は白鵬に対して一つの決め事だけを手に立ち向かおうとするが、「拍子の逆を攻める」技能を持つ白鵬に対し、そのような視野狭窄ぶりは忽ちに見抜かれてしまう。
毎回のように立合いで呼吸をずらされる某力士へのアドバイスとして「待ったをすればいい」と言った人がいたけれど、もしも「待った」に成功したとて、白鵬にとって特段のダメージはない。
1度目で相手の狙いを察知できたのだから、今度は別の引き出しから「拍子の逆を行く」ための策戦を持ち出せばいいのである。この手の駆け引き合戦で、継続的に白鵬を上回ることができた力士は一人としていなかった。


相手の心に目をつける
もちろん、こうした狭い視野の中に相手を拘束してしまえるのは、従前の対戦によって築いてきた布石所以。
「その時々の敵との戦いにな(慣)れ」というのは、様々なタイプの敵と対決を重ねて経験を積み、戦いに慣れるという意味が第一義だとは思うが、大相撲の場合、一人の敵と何度も対戦を重ね、戦い慣れるという要素も極めて重要になる。何年にもわたる対戦歴の中で、相手の型や技術だけでなく、その心中までも深く研究・分析することによって、ときに思いもつかぬような策戦で脅かし、本質とは言い難い細かな論点の中に相手を閉じ込めてしまう。
「目のつけどころは相手の心である」と言われても抽象的に聞こえるかも知れないが、横綱後期の白鵬と対戦経験のある力士たちが一様に
「何をしてくるかわからない」「いつも違うことをやってきた」「自分なりに準備をしても裏をかかれてしまう」
などと漏らした感想を聞けば、「大局を見おとし、心に迷いを生じて」いた状態が手を取るように分かるだろう。また、大一番と称される取組において、白鵬の勝利に「心理戦・神経戦」の形容が多くなされたことも思い起こされるのではないか。


道理を理解しながら鍛錬する
「われわれは、とかく些細な現象に囚われがちだが、現象の背後にひそむものを見ぬくためにはどうすればよいか?武蔵は一つの実例として、蹴鞠や曲芸の例をひき、訓練を強調している」
(前傾「五輪書」207頁)

「結局、鍛錬あるのみ」とはどんな指導者でも口にする常套句だが、大事なのは道理を理解しながら己を磨くこと。道理とは「大キに広く付る目」であり、「観の目つよく、見の目よはく」である。この前提を誤ると、せっかくの才能も持て余したまま、成長のために重要な時期を徒過してしまう。

もっとも、筆者に分かるのはここまでだ。鍛錬を重ねた向こう側の景色は到底見通せるものではないし、言葉でとやかく語り尽くせるものでもないのだろう。
一つだけ示せることがあるとすれば、明確な終着点はないということ。道理をもとに、絶えず分析・研究・鍛錬を重ね、「兵法の道」と共にある。
横綱白鵬は、まさしくそのような土俵人生を歩み続けた人だった。そして、これから始まる指導者としての「道」においても、進むべき方向性に大きな違いはないのだと思う。


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前回分の記事



前回は白鵬の取り口における特異性として2つの戦術を紹介したが、ここで単純な疑問が湧いてくる。
つまり、そのような立合い、すなわち相手の些細な重心の変化を逃さず先手を取るような立合いを、どこまで狙いすまして仕掛けられるのかという問題である。
映像を見返すと、たしかに相手の重心が体勢が崩れた(踵重心・つま先重心など)ところで抜け目なく立っているように見えるのだが、なにしろコンマ何秒の差が勝敗を分ける世界、「踵に乗った!」と気付いてから立っているようでは相手の隙を突くことなどできず、また上体に力みが生じるなどして、踏み込みの質自体も乱れやすくなってしまうのではないか。
だとすれば、そのような欠陥を晒さずして先手を取るべく、白鵬はどのような工夫をしているのだろう。より具体的に書けば、相手のどの部分を見て体勢の崩れを感じ取っているのだろうか・・・

無論本人に聞くことができれば一番良いのだが、そういう立場にない者は根拠となるような材料を探しつつ、想像の力に頼るほかはない。
今回も五輪書を紐解き、ヒントを探っていくこととしよう。



五輪書・水の巻
一 兵法の目付と云事
目の付やうは、大キに広く付る目也 。観 見 二ツの事 、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事兵法の専也 。敵の太刀をしり、聊敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事也 。工夫有べし。
(中略)目の玉うごかずして、両わきを見る事肝要也 。かやうの事、いそがしき時俄にはわきまへがたし。此書付覚え、常住此目付になりて、何事にも目付のかわらざる所、能々吟味有べきもの也。

【訳】
戦闘の際の目くばりは、大きく広くくばるのである。
観、すなわち物ごとの本質を深く見きわめることを第一とし、見、すなわち表面のあれこれの動きを見ることは二の次とせよ。
離れたところの様子を具体的につかみ、また身近な動きの中から、その本質を知ることが兵法の上で最も大切である。敵の太刀の内容をよく知り、その表面の動きに惑わされぬことが何より肝腎である。
(中略)目の玉を動かさぬままにして、両わきを見ることが大切である。こうしたことは、せわしい中で急に身につけようとしても駄目であって、この書物をよくおぼえ、平常からこのような目つきとなり、どのような場合にもそれが保たれるよう、十分に研究すべきことである。
(宮本武蔵「五輪書」 神子侃訳 徳間書店 81頁)


一見、哲学的・抽象的なアドバイスにも感じるが、その上で「目の玉を動かさずに両わきを見ろ」という具体的な技法に言及しているのが興味深いポイントであろう。
この点について、魚住孝至氏は

目を見開いて普通に見ている時には、心が外に向かって、気付かないうちに眼球はかなり動いています。そのため、焦点はその都度いろいろな対象へと移っており、それ以外の背景や両脇は見えなくなっています。
これに対し、目を少し細くして目の玉を動かさず、近くのものでも遠くを見るようにすれば、目はいちいちの対象にとらわれず、周り全体を視野に入れることができます。気が外に取られず、正面を見ながら同時に左右両脇まで見えるのです。
(NHKテキスト100分de名著 宮本武蔵「五輪書」41頁)

と解説しているが、このような指摘は白鵬の立合い(あるいは取り口全般)における視野の広さにも関係がありそうだ。踵重心になった、つま先重心になった、と表面の動きにとらわれて眼球を動かすのではなく、広く状況全体を見渡していく力。
神子侃氏は「空の巻」において、「観の目と見の目」を「判断力と注意力」と訳している(前掲書223頁)が、この2つを一体のものとして、少しの遅滞もなく、乱れもなく、自然と操縦できる状態こそが「観の目つよく、見の目よはく」の実践型であり、白鵬の目指した境地と言えるのではないか。
逆に言えば、対戦相手を目先の動きに固執させ、状況把握能力を奪い、すなわち「見の目つよく、観の目よはく」の状態に陥らせてしまうことで、戦う前からすでに自分優位の形勢を築いているということになるのだろう。


以上のような内容を踏まえた上で、次回は「観と見」2つの目の応用編。「風の巻」の記述を中心に、より派生的な論点にまで足を伸ばしてみたいと思う。



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筆者が白鵬の取り口に通じるものとして五輪書を意識し始めたのはいつ頃だったろう。幾つかの記事や伝聞によって、本人がこの書を愛読しているという情報に触れたことはあったと思うが、具体的な接続度合いに確信めいたものを抱くようになったキッカケが2016年5月に放送された「100分de名著(Eテレ)」という番組であったことは間違いない。
ここで取り上げられた極意の中に、思わず「白鵬やん、これ!」と叫ばずにはいられない技法があったのだ。

連載の冒頭にあたり、まずは当該箇所の提示から始めていくこととしよう。本来は同番組を担当した魚住孝至氏による現代語訳を紹介すべきなのだが、偶然古書店で神子侃訳(徳間書店 1963年刊行)を手に入れたので、今回はこちらを用いて記載していくこととする。
古い本ですが、訳のみならず重要な箇所には随時解説も差し挟まれ、入門書としてとても読みやすく作られているので、興味のある方は是非。


一 敵を打に一拍子の打の事
敵を打拍子に 、一拍子といひて、敵我あたるほどのくらいを得て、敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心も付ず、いかにもはやく直ぐに打拍子也 。敵の太刀 、ひかん 、はづさん 、うたん と思心のなきうちを打拍子、是一拍子也 。此拍子能ならひ得て、間の拍子をはやく打事鍛錬すべし。

【訳】敵の虚をついて一気に打つ
敵を打つのに、一拍子の打ちといって、敵と我とが打ちあえるほどの位置をしめて、敵がまだ判断の定まっていないところを見ぬき、自分の身を動かさず、心もそのままに、すばやく一気に打つ拍子がある。
敵が太刀を、引こう、打とうなどと思う心がきまらぬうちに打つ拍子が、一拍子である。
この拍子をよく習得し、きわめて早い間で、すばやく打つことを鍛錬せよ。
(宮本武蔵「五輪書」 神子侃訳 徳間書店 99頁)


一 二のこしの拍子の事
二のこしの拍子 、我打ださんとする時、敵はやく引、はやくはりのくるやうなる時は、我打とみせて、敵のはりてたるむ所を打、打是二のこしの打也 。此書付計にては中々打得がたかるべし。おしへうけては、忽合点のゆく所也。

【訳】敵をたじろがせてから打つ
「二の腰の拍子」というのは、自分が打ち出そうとしたせつな、敵の方がより早く退いたようなときは、まず打つとみせ、敵が一時緊張したあとたるみが出たところを、つづいてすかさず打つのである。これが二の腰の打ちである。
この書物だけでは、なかなか打つことができないであろうが、教えをうければ、たちまち合点のいくところである。
(宮本武蔵「五輪書」 神子侃訳 徳間書店 100頁)




上記2つの方法は、具体的な鍛錬法について記されている「水の巻」からの引用だが、ここに書かれている内容が、横綱後期の白鵬に多く見られた立ち合いの駆け引き具合に酷似するのである。

「敵を打に一拍子の打の事(敵の虚をついて一気に打つ)」というのは、つまり突っ掛け気味の立ち合いである。相手が予期していない呼吸で(時には手を十分に下ろすことなく)立つことにより腰を崩して、一気に勝負をつけにかかろうとする。
傍目には「(相手力士が)待ったをすればいいのに・・・」と思うのだけど、最初の仕切りで既に不成立があるなどして、ちょうど判断力の鈍っているところを突っ掛けられると、ついつい立たされてしまい、ろくに相撲を取らせてもらえない、悔いの残る結果となってしまうのだろう。


「二のこしの拍子の事(敵をたじろがせてから打つ)」というのは、「拍子の逆を行く」という戦法の代表的なもので、白鵬がきわめて得意とする立ちである。
出るぞと見せておいて行かず、「たるみ」の出た相手が重心をかかとに寄せた瞬間を逃さず突いていく、あるいは、つま先重心になり、ふわっと立ってしまったところへ合わせていく。
いずれにせよ、「拍子の逆をついて」相手の一番イヤな呼吸で立てるのが、白鵬という横綱の大きな強みであった。

では、こうした強み、相手を出し抜く一級の戦術眼はいかなる鍛錬をもって磨き上げられるのだろう。次回、武蔵が提唱する「観の目・見の目」という視点から掘り下げていくこととしよう。



当連載では、大相撲の原理原則(ex.立ち合いは相手と呼吸を合わせる)を一旦隅に置き、
「五輪書」の具体的な提示の中から稀代の「兵法家」白鵬が勝ちに燃やした執念と技法を見出しつつ、横綱後期白鵬の追い求めた境地にできる限り迫っていきたい。






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